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暮しを楽しむの手帖
和風れすとらん浜田#2 創業から約130年!? 大村の移り変わりを見つめてきた「濵田屋」の歴史に迫ります

大村市内外への通勤・通学の足として、毎日多くの人が利用しているJR大村駅。なんと、現在の駅舎は100年以上前の大正7年に改築されたハイカラな建物ということをご存知でしょうか。

そんなJR大村駅の当時の白黒写真が飾ってあるのが、駅の斜向かいにある「和風れすとらん浜田」。それもそのはず、「和風れすとらん浜田」の前身である小売商「濵田屋」の創業は明治28年(1895年)。来年(2025年)に130周年を迎える大村の老舗なんです。

「この濵田屋と書かれた陶器は醤油を量り売りしてもらうときにつかっていたようです」と教えてくれたのが、代表を務める濵田宏久さん。京都の老舗料亭で副料理長を務めた経歴の持ち主で、2019年から郷里に戻り丁寧に真心込めたお料理を提供しています。

今回は濵田代表にナビゲートしていただきながら「濵田屋」の歴史にアプローチ。明治から令和まで近現代の大村を見守ってきた老舗の変遷に迫ります。

飲食業の始まりは戦後に始めたチャンポン屋。父の代には鰻にこだわる3階建ての和食店に

大村市内でも長い歴史を持つ「和風れすとらん浜田」。まずは明治の創業期の頃のお話をしたいと思います。

濵田さん:濵田屋創業期の正確な資料が残っていなくて卒寿を越えた大叔母から聞いた話になるですが、この店のルーツは明治28年(1895年)。大村駅開業の3年前に、果物を売る小売業や物の預かり所として商いを始めたそうです。

最初は小売りや物の預かりをなさっていたんですね。飲食業に参入なさったのはいつ頃なのでしょうか。

濵田さん:第二次世界大戦後の昭和23年。父が生まれる少し前に、もともと営んでいた小売業店舗に併設する形でチャンポンの店「濵田屋食堂」を開業しました。実は、当時の営業許可証がまだ残っていて…。これなんですけど、当時は木札の許可証だったみたいなんですよね。

ところどころ消えている部分もありますがちゃんと読める…。すごく年季が入っていて「濵田屋」の歴史を感じます。

濵田さん:それから高度経済成長で大村の街とともに発展して、約40年前、私が生まれた頃には3階建ての和食店になっていました。今、店の前の駐車場になっている部分が旧店舗の場所。1階が普通のレストランスペース、2階が120名収容の宴会場、3階には会議室と従業員用の仮眠室もあったかな。子どもながら父がかなり鰻にこだわっていたのを覚えています。

確か、自家製秘伝のタレも先代が作り上げたものでしたよね。

濵田さん:そうです。当時は敷地内に錦鯉が泳いでいる池があったんですけど、たまに木箱が入っていることがあったんですよ。その中身は生きたまま仕入れた天然ウナギ。池を生け簀代わりに使うことで新鮮な鰻料理を提供していました。目打ちしたウナギを開いてかば焼きにしていると美味しそうな匂いが漂ってきて…。お客様も「浜田と言えば鰻」という印象をお持ちの方が多かったと思いますね。

丁寧な料理を出し続ければちゃんと評価される…。世の中が混沌としたコロナ禍で飲食店に求められた画一的なニーズ

そして2000年代に入ると、社会的なライフスタイルの変化等により和風れすとらん浜田は現在の店舗での営業へと切り替えられます。

濵田さん:自分が美濃吉で働き始めたころだったと思うので、今の店舗になってから17年くらいになるのかな。父からはメンテナンス費用と固定資産税がバカにならない、と聞いていたので特に反対とかはなかったですね。ちなみに、現在は基本的に私と両親の3人で切り盛りしていて、ランチの時間帯のみパートさん1名に入っていただいています。

和風れすとらん浜田の売りとして知られる鰻料理。一時期、お品書きからその名前がなくなったことがあるそうですね。

濵田さん:20年ほど前の国産ウナギの価格高騰の時ですね。値段上げや輸入ウナギの使用も検討したらしいのですが、ずっと鰻料理を出してきた父のプライドが許さなかったんでしょうね。きっぱりとやめてしまった。でも、しばらくしてお客様から「あんたのタレで焼いた鰻が食べたいから復活してくれ」と直訴があったことをきっかけに復活させたと聞いています。

※Instagramより
その後、2019年に濵田さんが家業に入られて事業を継承。36歳で代表に就任されるわけですが、その直後に新型コロナウイルスの世界的流行が起こりました。

濵田さん:あれはびっくりしましたよね。日本中が大変だった時期ですけど、個人的には人の行動原理をすごくおもしろく感じた期間でもありました。というのも、コロナ禍で社会全体が自粛傾向になればなるほど、ほとんどのお客様のニーズが「たまの外食はいいものを食べたい、ちょっと贅沢をしたい」というものになったんです。

確かに、私もコロナ禍でランチ外食する時はちょっと奮発していました…!

濵田さん:普段はいろんな人がいろんなことに興味を持っているからニーズには多様性が生まれるわけですが、混沌とした世の中で自粛生活になると食へのニーズが画一的になった。そのちょっとした楽しみ、ちょっとした贅沢に真摯に向き合い、丁寧に料理を出し続ければコロナが終息した後もちゃんと評価してくださるんですよ。私にとって本当に良い勉強になったと感じていますね。

24歳で京懐石の老舗の門を叩き、若干29歳で副料理長として調理と経営に才覚を発揮してきた濵田さん。多くの飲食店が大きな影響を受けたコロナ禍でも冷静に状況を分析し、最善の手を打つことでさらなる成長ができたと振り返ります。

「どちらかというと私は経営者としての視点がベースで、そこに修業時代を含めた料理人としての経験が後付け。自分の脳みそが職人(料理人)と商売人(経営者)の2つに分かれている感覚なんですよね」

こうやってインタビューに答える時や人前で話すときは職人脳で行った方が盛り上がるんですよね、と笑う濵田代表。明治に産声を上げた濵田屋が約130年に渡り存続してきた背景には、それぞれの時代のニーズを見抜いて経営手腕を振るってきた濵田家のDNAが大きな要因なのかもしれません。

取材・執筆/Komori Daigo

INFORMATION
和風れすとらん浜田

長崎県大村市東三城町7-1 ( Google MAP

営業時間:

昼11:30~14:00、夜17:00~19:00(水曜定休)

TEL: 0957−53−2188